LOGIN帰宅してすぐに夕食を作り、少ししたら久々に日本の柔道場へと向かう。アメリカでも道場には通っていた。
小さな道場だったから人数も少なくわたしに勝てる人はいなかったので、日本ではどこまで通用するようになっているか楽しみ。
道場に到着してまずは師範に帰国の挨拶。
「お久しぶりです、師範。今日からまたこちらでよろしくお願いします」
「ゆきちゃん、おかえり。アメリカでも道場に通って敵知らずだったそうだね。みんな君がどこまで強くなっているか楽しみにしているよ」
受講費を支払いに来たお母さんから聞いたのだろう。周囲を見ると先輩たちが笑顔ながらも挑戦的な目でわたしの方を見ていた。
「この4年間で腕を上げたつもりではありますけど、今日は皆さんの胸を借りるつもりで自分の力を試したいと思います」
暴力が嫌いとはいえ、試合は別。こう見えてもわたしはけっこう負けず嫌いだ。ここまで挑戦的な視線を向けられたらいやがおうにも燃えてくる。やるからには絶対に勝ちたい。
まずは準備運動をしっかり行って体を温めておく。今日は約束稽古の後に乱取り。約束稽古は技の反復練習なので基本動作の出来や技の習熟度などを図ることができる。
乱取りはだいたいレベルが同程度の人同士で稽古を行うのだけど、今日はわたしがひさびさに帰ってきたから今の力量を図るという意図もある。
約束稽古の出来から見て初段相手で問題ないだろうということで高校2年生の兄弟子と組み合うことになった。
向かい合い一礼をして構える。組み合った瞬間に兄弟子の体のバランスが偏っていることに気が付いたので、そこを狙い崩して投げた。あっさりと一本。驚いた。
兄弟子も簡単に負けたことに驚いたようで再戦。結果5戦やったけど全戦瞬殺。
結果を見ていた2段の兄弟子とも同じく5戦試合をしたけど、その人ですら1分と持たずわたしに投げられてしまった。
道場がざわつく。そりゃそうだ。まだ昇段資格の年齢にすら達していない少年が有段者をいともたやすく投げ飛ばしているのだから。
自分でも己の運動神経の異常さは理解しているけど、武道の有段者相手にも通用するとは驚きだ。
最終的にちょうど非番で顔を出していたうちの道場の最高段位3段保持者の現役警察官、松田さんが手合わせをしたいと名乗り出たことで捨て稽古みたいになってしまった。捨て稽古は勝敗にこだわらず自分より実力のある相手に胸を借りて技のキレを磨く稽古のこと。
形式は捨て稽古だけど、わたしにはそんな気は毛頭ない。やるからには勝ちに行く。
さすがに3段ともなると実力がまるで違う。普通なら勝てない。だけどわたしは諦めるつもりなんて欠片もなかった。わたしは普通じゃない。
どれくらい時間がたったのか、一進一退の攻防の中わずかなスキをついてわたしが技ありを1回とったが、その後なかなか勝負はつかない。お互いの気迫で肌がチリチリする。
わたしもそこまで体力がある方ではないのでこれ以上長引くと不利になってしまうが、松田さんはスキがないうえに果敢に技を仕掛けてくるのでいなすだけでも大変だ。
だけどこのまま体力切れで負けるなんてまっぴら。
格上相手とはいえ一切ひるむことなく、それまで以上の闘気を全身に張り巡らせ相手の動きに意識を集中させる。周囲は静まり返り、この勝負の行く末を息をのんで見守っている。
しばらくにらみ合いのような状況が続いていたが、一瞬のチャンスが巡ってきた。
並の人間なら見落としてしまうようなわずかな重心移動。ほんのわずかだけ松田さんの重心が上がった。その瞬間を逃さず今の自分が発揮できる最大の速さで技を仕掛ける。
さすがは現役警察官と言うべきか、簡単に投げさせてはくれなかったがなんとか技ありをもぎとることができた。さきほどの技ありとあわせて合わせ一本。どうにか勝った。
肩で息をしながら一礼。あぁこれ明日絶対筋肉痛になるやつだ。そんなことを考えていると松田さんが握手を求めてきた。
「本当に強いな。驚いたよ。オリンピックに出れば史上最年少メダリストも狙えるんじゃないか」
握手に応えながらわたしは疲れた顔で笑う。
「いや、ほんとギリギリですよ。もう体が限界です。それに大会にも出たことありませんし、メダルにもあんまり興味がないです」
「それだけの実力があるのにもったいないな。こんなに可愛い子が強いともなれば話題性も十分だろうに。人気者になれるぞ」
悪戯っぽい笑顔でそんなことを言ってくるが興味がないものは仕方がないというもの。
「武道はわたしの本業じゃないので。どうせならわたしのやりたいことで人気者になりたいです」
「やりたいこと?」
「歌とダンスが好きで。聞くだけで幸せになれる、元気をもらえる、そんな歌を世間に届けたいんです」
「そうか。それじゃ仕方がないな。それだけの身体能力があればダンスもキレがありそうだ。デビューしたら是非俺にも教えてくれないか、応援するよ」
笑顔の優しい人だ。きっと地域の人にも慕われているんだろうなと思う。
「ありがとうございます。がんばります」
長時間にわたる攻防で体力は使い果たしてしまったので、今日の稽古はこれでおしまいということにしてもらう。
出入り口で中に向かって一礼を行い、他の道場生からの盛大な拍手に見送られながら道場を後にした。
疲れた体を引きずるようにして家に帰るとみんなまだご飯を食べずに待ってくれていた。
温めれば食べられるようにしてあったのに、誰も文句など言わず思い思いにソファーでくつろいでいる。
「いつも道場行ってもそんなに遅くなるわけじゃねーだろ。ご飯は1人で食べるよりみんなで食べた方がおいしいんだから気なんてつかわなくていーんだよ」
ソファーに寝転がっていたより姉がそう言ってくれる。そんな思いやりが身に染みるほど嬉しくてさっきまで感じていた疲れもどこかへ行ってしまった。
「ありがとね。じゃあすぐ温めるからみんなで食べよ」
わたしの一番大切な人たちに感謝の気持ちを込めた笑顔を向けて食事の支度にとりかかった。
「くっ、あの笑顔は反則だろ……」
台所に立つゆきには届かない声でつぶやく。
「なんかドキドキしてるよぉ」
ひよりもダメージを受けてるみてーだ。
「なんであんなに愛らしい笑顔ができるのかしらね~」
「正に規格外」
いや、全員やられたらしい。
「みんなどうしたの~?ご飯すぐできるよ?」
ほんと、弟が可愛すぎるんだがどうしたらいいんだ……。
そんなかわいい弟にご飯の用意をすべて押し付けるわけがなく、それぞれが何も言われなくてもやることを見つけて手伝う。
ひよりがそれぞれのお米を茶碗によそい、楓乃子が食器類をテーブルに並べわたしは茜と一緒に配膳を手伝う。
準備が整ったところでいつもどおりわたしのよびかけにあわせてみんなで『いただきます』今日の食卓の会話の主役はゆきだ。
「今日からいよいよ配信開始だな」
「うん、今日は自己紹介と活動内容の告知くらいだけどね」
「第一印象は大事だよ、ゆきちゃん!がんばってね!」
さりげにプレッシャーかけてねーか、ひより?
「人前に立つのは慣れてるし平気だよ。それにとってもかわいいイラスト仕上げてもらったしね!」
経験も舞台度胸にも問題はないのに、いざ生配信を見せてくれと言うと真っ赤な顔でイヤだと拒絶するのが謎だ。
他人の前では堂々と披露できるのにどうして身内にはそんなにシャイなんだ?それにしても恥ずかしがる顔もいちいちかわいい。
「どうして~?歌うことは別に恥ずかしくないんでしょ~?」
「生配信の時は歌だけじゃなくてリスナーさんといろいろお話したりもするからね……テンション上がったら余計なことまで言っちゃうかもだし……」
テンション上がったら何を口走ってしまうってんだ?余計に気になるじゃねーか。
「で?どんなイラストを描いてもらったんだ?」
ゆきがスマホをいじってその画面をみんなに見えるように掲げる。
「確かにかわいい……でも」
「でも?」
「なんでもない」
ゆきは不思議そうな顔をしてるが何を言いたいかわかるぞ、茜。中の人の方が断然かわいいとかいいのかって言いたいよな。絵師さんに失礼だから言わないけど。
「そういえば打ち合わせの時に絵師さんがこの依頼は自分史上最大の力を振り絞ってやりとげる!って言ってたからかなり気合入れて描いてくれたんだと思うんだよね。ほんとかわいいもん」
「打ち合わせの時に顔は見せたの?」
「うん、イメージを知りたいからってビデオ通話したよ」
「あー……」
全員声を揃えて納得。この弟の分身になるかわいい絵を描いてとかどんな無理難題だよ。そりゃ最大の力を振り絞らないと描くことなんてできないわな。
ゆきは別の意味にとってるみたいだけど。でもゆきがこんなに生き生きとした顔をしてるのは見ているこっちも嬉しくなってくる。
いつも人の世話ばかりで自分の事は後回しにしてしまう弟が楽しんでいるんだ。精いっぱい応援してやりたい。
いつもどおりゆきの作った美味しい料理に舌鼓を打ち、満足して食後のお茶をすすっていたらけっこういい時間になっていた。
「時間は大丈夫なのか?」
「あ!もうこんな時間になってたんだ!そろそろ準備するから行くね!」
声を揃えて発破をかける。「頑張ってな!」「いっぱい楽しんできてね!」「応援してますから~」「トチるなよ」一部煽ってるような気もするけど各々が激励の言葉をかけてゆきを見送る。
ゆきなら大丈夫。見た目どころか性格まで良いところばっかりの自慢の弟だ。
きっとみんなの人気者となるに違いない。
日本どころか世界中で愛されるようになる日がやってくるんじゃないか、そんな気がした。
リスナーさんの前で復帰祝いの唄を披露し、失敗してしまったあの日から一年以上の月日が過ぎて、わたしは二十二歳になった。 そして今、わたしはある一室にいる。 「わたしはもっとみんなの近くで唄いたい!」 そう宣言してから半年以上、わたしはリハビリとボイトレに励み、そして自分の声を完全に取り戻した。いや超えた。 かつての音域からさらに半オクターブ、広げることができたのだ。 そしてわたしはボイトレに励みながら、ある計画を実現させるためにかつての自分の考えを覆す決断をしていた。「それではその時は全面的にプロデュースをお願いするということで。利益の取り分は書面通りで構いません。よろしくお願いします」 かつて大阪で琴音ちゃんを通じて知り合った女性プロデューサー、五代さんに向かって頭を下げる。「こちらとしてはどんな条件であれ、ゆきさんに来てもらえるなら大歓迎です。でも一体どういった理由で心変わりを?」 芸能界という世界を毛嫌いし、関連するようなところとは極力距離をおいてきたわたしが突然こんなことを言いだしたのだから、疑問に思うのも当然だろう。「確固たる目的のためです。わたしが以前、脳の障害で一年以上昏睡状態にあったのはご存知ですよね?」 黙って頷く五代さん。 ネットどころかオールドメディアでもニュースになったような出来事だから知っているのは当然だろう。いや、その仕事からしてたとえニュースにはなっていなくとも、彼女ならそのネットワークで情報を得ていただろうと思う。「元々わたしは幼いころから脳の障害を抱え、余命も宣告されていたことから生きることに対して諦めの気持ちがありました。だけどそれを変えてくれた人たちがいた」「お姉さん達ですね」 意外な人から突然核心をつかれてしまったことに驚き、わたしは目を見開いた。どうしてこの人がそのことを? わたしの疑問が顔に出ていたのか、五代さんはふっと笑うと以前は見せることのなかった柔和な表情を浮かべた。「ゆきさん、わたしは何も企業利益だけを考えてあなたに声をかけたわけじゃありませんよ。わたし
「みんなただいま!」 ようやく帰宅許可が下り、無事退院となったその日。 我が家では家族全員が休みを取って快気祝いのパーティーを準備してくれていた。「「「「おかえり!」」」」 声を聞くだけで分かる、心から待ちわびていた祝いの言葉。 お母さんから始まって、家族全員とハグをした。この辺はアメリカ生活をしていた名残なのかな。 お父さんは少し恥ずかしそうにしてたけど。息子相手なのになぁ。「それで、もう日常生活に支障はないのか?」 より姉が気づかわしげな視線で尋ねてきたので、わたしは元気をアピールするために腕をぐるぐる回してみせた。「この通り、すっかり元気だよ! まだ激しい運動は止められているけど、軽い筋トレくらいなら大丈夫。日常生活の筋力を取り戻すためにも家事は積極的にやってくださいだって。だから明日からはまたわたしがご飯を作るからね!」「……!」 みんな声にならないほどの衝撃を受けている。え、わたしがご飯を作るのってマズイ?「ま、またゆきのご飯が食べられる……」 両手で口を押さえたお母さんが感涙にむせぶ。えぇ、そんなに!? かの姉とあか姉は無言で両手を天高く突き上げている。一片の悔いなし? そしてより姉とひよりに両サイドから抱き着かれてしまった。「一年半ぶりのゆきちゃんの手料理! もう今からお腹が空いてきたよ!」 明日まで待ってたら餓死しそうだね。「いかん、よだれがとまらん」 本当によだれを垂らしてしまうより姉。乙女のする顔じゃないぞ。 でもこんなに待ち焦がれてくれていたとなれば腕が鳴るというもの。明日は目いっぱいご馳走を作ろう。「でも思ったよりも早く退院できましたね」 ようやく気分の落ち着いたかの姉がオードブルの並んだ食卓につきながら、感心したように言って来た。「そうだね。若さもあるけど、それ以上に頑張ったしね」 最初は半年の予定でリハビリプログラムを組
立てるようになってからのリハビリは、想像していた以上に大変だった。 平行棒、杖、歩行器を用いて転倒防止に注意しながら、重心移動や筋力向上、正しい歩行様式を取り戻していくのは一朝一夕にできるようなものではなく、なかなか思うように動いてくれない体に苛立ちを覚えつつも地道に筋力を蓄えていく作業。 下手に頑張りすぎると逆効果になると分かってはいるけど、一日も早い復帰を願う気持ちはなかなか抑えられるものでなく、遅々として進まないリハビリプログラムにヤキモキしていた。「さすが若いだけあって回復が早いですね」 歩行訓練後のマッサージをしてくれながら、理学療法士の飯島さんがそう言ってくれる。「自分では回復が遅く感じてしまい、どうしても焦ってしまうんですけどね」 どうしても頭をもたげてしまう焦りの心。 愚痴をこぼしたところでどうにもならないとは分かっているけど、ずっと優しく指導をしてくれる飯島さんにはつい甘えてしまう。「早くおうちに帰りたいですもんね。でもね、わたしもあなたのファンだから言うけれど、待っている側からすれば焦って戻ってきて取り返しのつかない後遺症が残るくらいなら、何年でも待つから万全な状態で戻ってきてほしいと願うものですよ」 優しい手つきでふくらはぎを揉み解しながら、それ以上に優しい笑顔を見せてくれる飯島さん。 リハビリが始まった当初からわたしのファンを公言していて、担当が決まった時には飛び上がって喜んだそうだ。 そんな熱心なファンをしてくれている彼女の言葉だから信じたいけれど、どうしても不安な気持ちは拭えない。「飯島さんはそうかもしれませんけど……」 八つ当たりにも似た発言だけど、飯島さんは気分を害した気配すらなく、穏やかに話を続けた。「不安になるのも分かりますけどね。ファンを信じるのもアーティストとしての務めじゃありませんか?」 ただの弱気の吐露にも関わらず、温かい表情で返ってきたその言葉に、わたしの中の何かが動いた。 今まで明確に意識したことはなかったけれど、わたしもアーティストの端くれな
リハビリをやり始めてから比較的すぐに自力で立ち上がれるようになった。 だけど、そこからが過酷な日々の始まり。 最初は一歩二歩と歩くだけで滝のような汗をかき、心拍数も爆上がりしてしまったのでその時点でリハビリ中止。 その後も数日間はトライしては中止の繰り返しで一向に進まない。 そこで体力の回復が先決だと判断した先生の指示により、立って歩くよりも先に長時間座ることから始めることにした。 ただ座るだけと思って侮っていたけれど、すっかり体力の衰えてしまった体にはこれが存外キツイ。 スマホを触って気を紛らわせているとはいえ、最初は二時間程度で音を上げてしまった。 だけどそれも繰り返すうちにだんだん苦ではなくなっていき、半日座っていられるようになった頃にはかなり体力も回復していたようだ。 その後に始まった歩行訓練でも最初のように滝の汗をかくことはなくなり、ようやく日常生活に向けての第一歩が始まった。「今日はね、リハビリ室の端から端まで歩けたんだよ」 嬉しそうに報告するわたし。「ふーん」 なんだか気のなさそうな返事をするより姉。「あれ? なんか怒ってる? わたしのリハビリが進んでるのが嬉しくない?」「いや、そんなわけないんだけどな。ゆきがどんどん元気になっていってるのはそりゃ嬉しいさ。でもな」 なんだろう。リハビリとは関係なさそうだし、他に何か怒らせるようなことしたっけ?「ゆき、何か報告しておかないといけないことを忘れてないか?」 報告? ずっと病院にいるわたしがリハビリのこと以外で何を報告することがあると言うんだろう?「何のこと?」 本当にわからない。わたしがより姉を怒らせるようなことなんて皆目見当もつかないよ。「茜とのことだ」「ひうっ!」 突然あの日のことを突きつけられて、ビックリすると同時に思い出してしまったので変な声が出た。「なんだその奇声は。茜が自慢気に話してたのは本当だったのか……。てっきりあいつの作り話だと思ってたのに」 カマかけられた! でも本当のことだから嘘をつくのもなぁ。「それで、だ。ゆき」 改めてわたしの方へと向き直るより姉。対して被告人よろしく姿勢を正すわたし。「正妻の立場としてはだな。茜がしてもらった以上は同じことをしてもらう権利があると思うんだが」 いや、あれはわたしの方からやったわけじゃな
「みなさん、こんにちは。どうもご無沙汰してました。雪の精霊、YUKIが今日もみんなに幸せを届けるよ! とまぁかつてのテンプレ挨拶をぶちかましたわけですが。みなさん、本当に長い間お待たせしました! ゆきはこの通り見事復活を果たして今ではピンピンしていますよ。 眠りこけていたおかげですっかり体がなまってしまったので、しばらくリハビリが必要なんですけど、またみんなに歌声を届けられる日が来るのも近いです」 ひよりに撮影許可とノートパソコンを頼んだ次の日、今日の当番だったあか姉が許可を取れた情報と共に届けてくれた。 そのパソコンを使ってさっそく配信予約を取り、夕食後の十九時に配信を開始した。 配信の告知をしたのは昨日なのに、みんな余程待ちかねてくれていたのか同接は60万人オーバー。 倒れる前の50万人を大きく上回る結果となった。「たくさんの人が見に来てくれて、それだけわたしの歌声がみんなに求められているんだと思うと感無量です。変わらぬ応援にとても感謝しています」 あまりのありがたさに思わず涙ぐんでしまう。だって一年以上ものブランクがあって、それでもこれだけの人が集まってくれるのが嬉しくて、ありがたくて。【歌ももちろんだけど、ゆきちゃんの顔が見たかった】【元気そうで安心した】【ゆきちゃんの姿を見たら涙が出てきた】【ほんと、おかえりなさい!】 歌だけじゃなく、わたし自身をも待ってくれていたというコメントに、とうとう涙が溢れてしまった。 あーあ、本当にわたし涙もろくなったよなぁ。男のくせにみっともないとは思うけど、止められないものはしょうがない。「みんな本当にありがとうね。一日も早くみんなの前で唄って踊れるよう、毎日リハビリ頑張ってるんだ! だからほら、一週間でもう立てるようになったんだよ」 そう言ってノートパソコンをテーブルの上に置き、立ち上がろうとするわたし。 まだ安定性には欠けるけど、どうにか自分の足で立ち上がることが出来た。隣であか姉がハラハラしたような顔で見てるけど。【あんまり無理はしないで】【ワイらはいつまでも待ってるから】【生まれたての小鹿みたいになってるやん】【怪我する前に座って!】 うちの姉妹だけでなく、リスナーさん達もわたしには過保護だな。「これくらい大丈夫だって。なんならターンしてみようか?」 調子に乗ってターンをしよう
日々続くリハビリは、思った以上に大変だった。 まずは寝返りや座ることから。最初の内はそれすらも大変で、どうにか寝返りを打てると言った状態だった。 それから座ることも難なく出来るようになったかと思ったら、息つく暇もなく自力で車いすに乗ることを特訓。 これが想像以上に困難なことで、立ち上がろうとしても膝が笑って上手くできない。看護師さんの介添えがあってようやくといったところ。「えへへ。密着出来て幸せぇ」 一部、邪な考えで介助してくれている人もいるけれど。 一度より姉に見つかって、ナースステーションで担当替えを真剣にお願いされていた。できればわたしも替えて欲しい。 でも決して手は出させませんという言質を得て、どうにか引き下がっていたようだ。そこで納得しちゃうのね。 わたしの不安な気持ちと、あの舐めるように見てくる気持ち悪い視線からは解放してくれないのだろうか。 病院も人手不足なのはわかるけど、あんなのを特別病棟に配置して評判に関わったりはしないんだろうかと心配になる。「今まではもうちょっとマシだったんですけどね」 他の看護師がそう言ってフォローしてたけど、正直何の慰めにもなってませんよ? むしろエスカレートしてるってことで余計不安になったわ。 だけど車いすに乗って久しぶりに外へ出たのは気持ちがよかった。すっかり忘れかけていた風の匂い。 そこには微かに草木の匂いが混じり、まもなく訪れる生命が謳歌する夏の気配を感じさせる。でも今日は少し湿っぽい匂いも混じっているから、雨でも降るのかな。 以前と違って色が見えるようになったわたしは、外の景色をいくら眺めていても飽きることがない。 目を凝らせば色というのはあちこちに散らばっていて、普通に暮らしていれば気づかないようなところにも鮮やかな色が潜んでいる。 例えばビルのひび割れから生えた生命力に溢れた雑草の緑。暗いアスファルトの隙間から顔を覗かせるたんぽぽの鮮やかな黄色。 普通の人なら気づくことなく通り過ぎてしまうその景色も、今まで違う世界を見ていたわたしには物珍しい。 部屋にいてもスマホやテレビを見ている時間より、窓の外を眺めている時間の方が長いくらいだ。「なぁに、また外を見てるの?」 今日はひよりの番なのか。「うん、今日も外の景色がキレイだからね」「やっと見えるようになっ
「門外不出のゆきの写真だぞ! 1枚100円な!」 本当に売りつけやがった。なんて姉だ。「わたし買います」「買う」「わたしもー!」 こらこら、口車に乗らないの。かの姉はその1万円札をしまいなさい。「そんなの買わなくていいよ。データはこのDVDに焼いてもらったから」「あ! てめーゆき! 商売の邪魔すんな!」 身内相手に商売すんな。「社会人が学生からお金を巻き上げるのは黙って見てられません。そんなにピーマン食べたいの?」「ごめんなさい、そろそろ許してください」 たった1日で音を上げるなんて、どれだけ嫌いなんだか。「くっそー。せっかく小銭稼ぎができると思ったのに」 かの姉が
「はい、こっち向いて笑って~」 指示されるとおりにポーズを取ると、そのたびにフラッシュがたかれていく。 最初は渋々引き受けたモデルだったけど、撮影が進むうちにだんだん変わってきた。 なにこれめっちゃ楽しい!「その表情いいわね! もう少しだけ右を向いてくれるかしら」 レイさんの言葉に嬉々として従ってしまう。カメラマンってすごいな。 被写体の魅力を引き出す能力に長けているんだろう。声をかけられ、従っているうちにどんどん気分が高揚してくる。 もともとカメラの前に立つのは慣れているし、決して嫌
ひよりとの初配信は大成功で、再生数も今までの神回に負けないくらいの勢いで増えていった。 すっかりダンスの楽しさに目覚めてしまったひよりは、次の配信に向けて昨日とは別の楽曲のダンスを練習し始めた。 そして配信が終わった翌日の日曜日。 まだみんなが寝ている早朝からわたしはスタジオでひとり、ダンスの収録に励んでいた。 昨日、ひよりがわたしのアバターを使っていたのを見て思いついたこと。それを早速試してみているのだ。 まずは普通にダンスを踊りながら、優れた空間認識能力と記憶力を使って自分の動きを頭に叩き込む。
いつまでも潮風に当たっていたせいで髪がベタベタになってしまった。 お風呂に入りたくて民宿に戻ると、残された3人はご立腹。「2人きりでデートですかー。いいですねー」 かの姉思いっきり拗ねちゃってるし。「いや、デートじゃなくて散歩してたらたまたま会ったから、少しお話してただけだよ」 嘘は言ってない。別に待ち合わせとかしてないし。 というかあんな暗い中、よくわたしを見つけることができたよね。「ゆきちゃんがいなくなったと思ったら一緒により姉もいないし。ひよりはとっても寂しかったんだよ